苦しみの問題.

苦しみの問題
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キリスト教の苦しみ理解の出発点は、イエス自身の救世主的自己理解です。人の子のメシアの到来という後期ユダヤ人の約束には、権力と自己高揚への誘惑があった。マタイによる福音書は、イエスが荒野でサタンに誘惑されたことを、世の権力への誘惑として描写しました。イエスご自身も、イザヤ書 53 章に従って、「人の子は多くの苦しみを受けなければならない」(ルカ 9:22) と教えられたという点で、権力と昇栄を目指す弟子たちの考えを深く失望させられました。イエスの苦しみの発表の中で、苦しみに対するキリスト教の理解が明確に表現されています。苦しみは最終的な目的ではなく、それ自体が人間の運命の実現に終わります。それは復活、再生、新たな創造への入り口です。この考えは、キリスト教の罪の理解から明確化されます。人間の自由の悪用としての罪は、人間を神に対する完全な敵対へと導きました。したがって、神に立ち向かうことは、この反逆の結果が肉体に至るまで人間のあらゆるレベルで克服された場合にのみ起こります。

初代教会では、十字架のしるしは苦しみの賛美ではなく、戦いの勝利の転換点となった場所に設置された古代の勝利のしるしという意味での「勝利のしるし」(トロパイオン)と考えられていました。場所。十字架も同様に、勝利のしるしとして、これまで世界を支配していた悪魔の力に恐怖を与えたため、「悪魔の恐怖」と考えられていました。古代教会の十字架の賛美歌は、「神の国の美しさの十字架」について語っています。コンスタンティヌス帝は、天上の十字架の幻視に従い、それまでローマ帝国によって迫害されていたキリスト教徒共同体の勝利のしるしと考えられていた十字架を帝国軍団の基準に固定し、それを象徴に高めました。古い神々の印の下に集められた異教の敵の軍団に対する軍事的勝利。

キリスト教の理解では、苦しみは、仏教のように、単にこの世界における人間の存在の一般的な条件下での苦しみとしては現れません。それは代わりに、キリストに倣うという特にキリスト教的な考えと結びついています。個々のクリスチャンはキリストの模範に従うよう求められています。キリストの体への組み込みは、苦しみ、死、復活というキリストの運命を自分自身の中で実行する準備ができている人々に与えられます。初期の教会のクリスチャンの特徴付けは、クリストフォロス、つまり「キリストを運ぶ者」でした。苦しみは自由という偉大なドラマにおける不変の原則であり、それは救いのドラマと同じでした。

肉体の復活

キリスト教の復活理解の重要性も同様に明らかです。人間とは何かについての二元論的な理解は、人間存在の精神的な側面と物質的な肉体的な側面との間に本質的な違いがあることを前提としており、必然的に魂の不滅という考えにつながります。しかし、キリスト教の希望は魂の不滅を目指すのではなく、肉体の復活を目指すのです。肉体性は霊性と無関係な性質ではありません。霊的なものはすべて肉体化に向けて迫っています。その永遠の姿は肉体的な姿です。この希望はウラジミール・ソロヴィヨフによって次のように表明されました。

もし人間の肉体的、体性的、物質的領域の究極の深さに潜む敵「死」が克服されなかったとしたら、人間にとって最高かつ最大の道徳的勝利は何の役に立つでしょうか?

救いの目標は、霊を肉体から分離することではありません。それはむしろ、身体、魂、精神のすべてにおいて新しい人間です。キリスト教は人間の「全体的」な見方を主張してきたと言うのは適切です。キリスト教の人間像は本質的に肉体的な側面を持っており、それは受肉の考えに基づいており、その最も明白な表現は復活の考えにあります。